葛西紀明選手の強さの秘密

第96号(2014年3月10日発行)

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ソチオリンピックでは日本の選手がたくさんの感動をくれましたね。私はとりわけ、スキージャンプで銀メダル、団体で日本に銅メダルをもたらした、葛西紀明(かさいのりあき)選手の笑顔がとても印象に残りました。
私の愛読書に月刊「致知」があります。とても勉強になるので、捨てずに残してあるのですが、2005年8月号に葛西選手のインタビュー記事が載っていました。抜粋してご紹介します。

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―――ジャンプを始めたきっかけは?
小学3年生の時、ジャンプをやっていた友達に誘われてやってみたんです。負けず嫌いなので、友達よりも跳んでやろうと思ったら、いきなり抜いてしまいました。人より跳ぶ、人に勝つ快感をその時初めて知ったんです。すぐにジャンプ少年団のコーチが家まで来て、息子さんにジャンプをやらせないかと誘ってくれました。

―――天性の才能が見出された。
でもジャンプという競技はすごくお金がかかるんです。うちにはとてもそんな余裕はなくて、親はダメだと。泣く泣く諦めたんですが、親の目を盗んで人が跳ぶのを見に行ったり、跳ばせてもらったり、ジャンプヘの思いは募る一方でした。

間もなく町民スキー大会があって、親に黙って出場したら一位になりましてね。もらった金メダルを手に、どうしてもやりたいと親に泣いて頼んだら、やっと首を縦に振ってくれたんです。

必要な道具は全部先輩のお下がりを使わせてもらってやりました。何しろうちは、米も食べられないくらい貧乏だったんですよ。親父が、麻雀にのめり込んでいたので、母が朝から晩まで1人で働いて姉と妹と私を育ててくれていました。電話も引けないし、スーパーにはいつもつけ払いで借金だらけ。そういう中でお金のかかるジャンプをやらせてくれた母には、本当に感謝しています。いつかオリンピックで金メダルを取って家を建ててあげる。母にはそう約束したんです。

それだけに、絶対に勝たなければならない。夢中で練習しました。だから中学、高校と、ライバルはいませんでしたね。勝ちまくっていました。

―――ジャンプで生きていこうという決意も次第に固まってきたんですね。
1つの転機になったのが、中学3年の時に札幌の大倉山で開かれた宮様大会でした。そこに私は、テストジャンパーとして出場することになったんです。中学生が跳ぶことは当時としては異例のことでした。

―――初めて体験する正規のジャンプ台はいかがでしたか?
ジュニア向けのジャンプ台とは比較にならないくらい大きくて、本当に怖かったですねえ。とにかく怪我だけはせずに家に帰りたいと考えていたんですが、優勝した選手よりも遠くへ跳んでしまったんです。

「陰の優勝者」と新聞に書かれて随分話題になりました。その時ですね。遠い夢だった金メダルを、現実の目標としてハッキリ意識したのは。

―――本格的なジャンプ人生の幕開けですね。
はい。高校はスキーの名門、札幌の東海大学第四高校に学費免除で入れていただきました。そして一年生の時に初めて世界選手権に出場したのです。

―――世界のレベルはいかがでしたか。
高かったですね。強すぎました。とりわけ僕が中学の時からあこがれていたフィンランドの “鳥人”ニッカネンとドイツのバイスフロク。この二人はずば抜けていました。僕たち日本チームが精いっぱい跳んで70mくらいなのに、彼らは115m、120mとけた桁違いの距離を出すんです。こんなに差があるのかとショックを受けましたが、逆に闘志も湧いてきましたね。

日本に帰ってからは、一層練習に熱が入りました。スキー部の練習が終わった後も、一人で練習を続けたり、夜中に走ったり。世界で戦うためにはもっと筋力をつけなければと考えて、特に筋力トレーニングに集中して取り組みました。高校では寮生活をしていて、食堂との間に体育館がありましたが、食事の帰りにはいつもそこでトレーニングをしました。まずいプロテインも我慢して飲みました。やれることは何でもやりましたね。

―――世界トップレベルの実力は、たゆまぬ猛練習の賜物でしょうね。
もちろんそれもあります。しかしそれ以上に、自分を支えてくれる人たちの存在が大きかったですね。

実は、1994年のリレハンメル五輪の前年に、妹が再生不良性貧血という重病にかかりましてね。辛い治療を何度も受けたり、ドナー探しで大変だったんです。妹のためにもぜひ金を取りたいと思っていたんですが、銀に終わってしまった。

でも、妹は病気をおして千歳空港まで迎えに来てくれましてね。誰にも触らせずにおいたメダルを、1番に触らせてあげたんです。元気になってくれ、という気持ちを込めましてね。

―――喜ばれたでしょうね。
「ありがとう。次は金だよ」って逆に励まされました。病気の妹に比べれば、自分は何も辛いことはない。そんな妹を支えに、1998年の長野五輪へ向けて気持ちを奮い立たせました。

ところが1994年の11月、ある大会で転倒して鎖骨を折り、しばらく跳べない状態が続いたんです。翌年の5月頃ようやく完治して、私はブランクを埋めるためにそれまで以上に猛練習に励みました。通常なら300本跳べば十分といわれる夏に、900本跳んで再起を賭けたんです。

―――通常の3倍の猛練習を。
しかし、それが逆に災いして、その冬のシーズンで今度は着地の時に足を骨折してしまったんです。普通に着地したんですが、その途端にコリッと。練習のし過ぎで、腰や股関節に負担をかけ過ぎたのが原因でした。

それから1年半くらい記録と遠ざかっていたんですが、そんな折に実家が放火に遭いましてね。母が全身火傷で病院に担ぎ込まれたのです。

―――ああ、お母様が全身火傷に。
なんとか一命は取り留めたんですが、火傷は全身の70%にも及んでいて、炎の熱で肺も気管も焼けていました。何度も皮膚移植を繰り返したんですが、結局1997年の5月に亡くなりました。

後から入院中に母の書いた日記が出てきましてね。それを開くといまでもポロポロと涙が出てくるんです。ああ、辛かったんだろうなあって…。

貧乏と闘いながら必死で働いて僕たちを育て、ジャンプまでやらせてくれた母には、いくら感謝をしてもし足りません。金メダルを取って家を建ててあげる約束を果たせなかったのが、本当に残念で……。

入院中の母は、もう手も握れないくらいひどい状態でした。痛みは絶えず襲ってくるし、死の恐怖と必死に闘っていた。そんな中で、不調な僕を気に掛けて、励ましの手紙を送ってくれたんです。

―――そこに書かれていたことは。
「いまこの時を頑張れ。絶対におまえは世界一になれる。お前がどん底から這い上がってくるのを楽しみに待っているよ。」と。

いまでも大事な大会の前にはこの手紙を読み返します。見るたびにものすごく大きな力をもらえるんです。(転載ここまで)

☆☆☆☆

葛西選手のことを海外の選手は「レジェレンド」と呼びます。伝説となったジャンパーという意味ですが、41歳である彼は、まだまだ現役を貫いています。今も徹底的に身体を鍛えています。元々才能もあったのでしょう。しかし、それだけではありません。血のにじむような努力をしてきました。そして幾度となく大きな苦しみや悲しみが襲いかかってきたのです。それらを彼はあの笑顔で乗り越えてきたのです。私たちもがんばっていきましょう!

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葛西紀明選手の強さの秘密」への2件のフィードバック

  1. 大谷先生、ありがとうございます。勇気をもらいました。 頑張ろう。泣き言を言ってる場合ではないですね。(*^^*)

    • おかさん、ありがとうございます。
      投稿に気がつかなかった・・・ごめんなさい!

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